2016/04/08

身分制度



近代では生まれによって身分が決まる社会が一般的でした。
日本でもほんの百数十年前までは、どの身分に生まれるかで人生の選択肢が限定される社会でした。

そんな時代に下級身分に生まれた優秀な人はさぞかし悔しかったでしょう。
そしてそのエネルギーは不条理な世を正すことに向けられ、命がけで活動し、現在の社会が作られました。

おかげで私たちは身分に関係なく本人のやる気と能力で、いくらでも自分の未来を切り開ける社会に生きているわけです。

しかしながら、それで全体の幸福量が増えたかと言うと、それは違うかもしれない、と思います。

身分制度があった時は、良くも悪くも余計なことを考える必要はなかったでしょう。
自分が豊かになれないのは社会が悪い、この身分に生まれてしまったから仕方ない、と他責にすることが出来たので「自分は悪くない」というプライドを保てたはずです。

それが、現代のようにやる気と能力があれば誰でもチャンスがありますよ、と言われてしまったら、自分が豊かでない=自分はやる気も能力が無い=自分はダメ人間、ということを認めざるをえません。

世の中の98%は豊かではありません。それはその分だけプライドをずたずたにされている人が居るということです。

すると身分制度から解放されて1%か2%程度の人にとっては確かに良かったとしても、他の98%が以前より苦しい思いをしているなら全体としてはひょっとして幸福度は減っているのかもしれません。

しかし(たぶん豊かになれないけど・・・)努力次第で豊かになれますよ、という夢を万人に見させているからこそ、人は腐らず努力してくれる訳で、おかげで生活水準の底上げが出来ているともいえます。

要するに世の98%の人は、ニンジンを目の前にぶら下げられ、走らされ続けた末に、結局食べられずに倒れる馬のようです。

そう考えると身分制度があった時のようにさっさと将来を諦めて、ニンジンなんかいらねーよ!と宣言して走るのを止めるのも一興じゃないでしょうか。

諦めてない人が提供する労働力で底上げされた社会にのるフリーライダーですので得なのは間違いないと思いますよ。

「そんな人生、楽かもしれないけど、いまわのきわに後悔しそう」と思うかもしれませんが、人類の歴史の99.9%の期間に生存した人は、生まれてから毎日起きてエサを取って食べて寝て死ぬだけの犬のような人生だったはずです。

考えてみればそれこそが人類のマジョリティな人生じゃないでしょうか。


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