2017/05/03

欲のアクセルは年齢に応じて踏む

株に限らず人生において「欲」との付き合い方は中々奥深いものです。

欲について考える時、私は公案という中国のお坊さんが修行に使う「婆子焼庵」という話が好きです。(詳細は記事の最後をご覧ください)

公案に解答は与えられてないので私なりの解釈ですが「欲は人間の本質であり毒にも薬にもなるもので、人はこれを否定せずにうまく付き合っていくべきもの」と思っています。

例えば欲は向上心の燃料になります。何かを成し遂げるには強い動機が必要ですが、その源泉は欲だと思います。このような場合は欲が薬となりますす。

昨今では20代から何も買わない・どこにも行かないという無欲な話を聞きます。一見聖人のような良い話にも聞こえますが、もしそうなら何も達成しないまま貧相な老人になりそうです。

一方で欲が毒となるケースでは贅沢競争があります。
例えば10億円のクルーザーを買っても、後に知人が30億円のクルーザーを買ってしまったらむしろ虚しさしか残らないでしょう。

そういうのはどこまで行っても相対的なものでキリがありませんので、そんなレースにハマって年がら年中、目を血走らせてセカセカと金儲けするのはまっぴらです。

という訳で、若いうちは貪欲になって上を目指し何かを築いて、中年以降になったら無欲になって視線を下げて余裕を楽しむのがいいかなと思っています。



さてここで話の範囲を一気に限定して、欲と株の関係について考えてみます。



積立て投資や損切りルールなど、ほとんどすべての投資戦略は、いかに感情に振り回されないか、という点がフォーカスされています。つまり欲の制御です。

しかしどんなルールを作ろうとも、最終的にルール運用を停止する権限を人間が持っていてはダメでしょう。ほとんどの人は損したら「今回はいつもと違う」とその運用を停止してしまうからです。
つまり大抵は自分自身の欲を飼いならす修行の方がルール作りよりも優先されます。守れないルールはゴミなのです。

そもそも投資家は大抵はいつも損した気分になっています。買って下がったら損したと騒ぐし、売った後さらに上がったら損した気分になっているのが投資家です。

あの100万円を数年で100億円以上にしたBNF氏も「相場に入っていないときに上がると損した気分になってしまう。だから相場はやめられない。ほとんど病気みたいなもの」というような話をしていました

このように資産を増加させる効率を極限まで高めようとするのは、さっきの贅沢競争を彷彿させ、欲が毒になってしまっている状態かも、と思うのです。

そういう意味では暴落時に怖くなって全部売ってしまうのも、機会損失を恐れて今のような時に腹一杯までポジションを取ってしまうのも、結局は同じ穴のムジナのように思うので私は今のところは一定量は無リスク資産にして持っています。

投資はそんな儲かんなくても、損しなけりゃいいじゃない、ぐらいの余裕を持てる欲の出し具合がちょうどいい感じです。

欲のアクセルは自分の年齢に合った分量だけ踏むのが大事で、私も踏むときは今でも踏みますが、その判断のハードルは20歳の時よりはだいぶ上がっています。

 

===「婆子焼庵」公案  ===

公案とは中国のお坊さんが悟りを開くための研究課題で、たくさん種類がありますが、その中の一つの「婆子焼庵」という公案があります。

この公案を簡単に書くとこうです。

昔、ある信仰深い老婆が一人の僧のために庵を建て、若い娘を雇って身の回りの世話をさせ、修行をさせていました。

二十年も経ったある日「うちのお坊さんもだいぶ悟った頃だろう、一度試してみないといかん」と思い、娘にあることを耳打ちします。

娘は言われた通り、その日のお給仕が済むと後ろからお坊さんにしなだれかかり、
「ねぇ、こんなときはどうするの?」
と耳元で甘くささやきました。

しかしさすがは修行を積んだお坊さんです。
「冬の岩に立つ枯れ木ように、私の心はまったく熱くならない」
と、きっぱりと娘の誘惑を拒絶しました。

庵から戻った娘はすぐに顛末を婆さんに伝えました。すると婆さんはこのお坊さんを賞賛をすると思いきや「私はこんな俗物を二十年も養っていたのか!」と激怒し、即座に僧を叩き出した上「汚らわしい」と言って庵に火を放って焼いてしまいました。

これが婆子焼庵のお話です。
そしてこのお坊さんは一体どうすれば良かったのか?というのが公案です。