2017/06/15

父の思い出

今の時期、世間で父の日セールをやっていたのを見ていたら父の事を思い出したので今回は父について書こうと思います。
なんだかんだ言っても私が今の状況にあるのは父の影響が大きかったと思いますので。


私の父は他界して既に久しいです。

父はいわゆる典型的な昭和のサラリーマンでして、金持ちでもなく貧乏でもなく普通の父さんでした。

私が小さかった時はとにかく仕事ばかりしていて、夏休みもどこにも連れて行って貰えませんでした。そのため新学期が始まってから夏休みの思い出という作文のネタがなく苦労した覚えがあります。

父はだいたい毎朝7時くらいにチャリで出勤し帰宅は深夜でした。さらに昭和の時代は土曜も会社がありましたので、この調子で週6勤で働いていました。

そして土曜の夜は部下3人とともに仕事を持ち帰ってきて、母が全員に夕食をふるまった後、もうもうとタバコの煙の立ちこめる部屋のコタツで部下達と仕事を再開していました。

私はそれが始まるとタバコ臭いのでいつも逃げていましたが、父たちはそのまま朝まで仕事をしていたようです。

今からすると機密情報を持ち出しや、働き方がブラックそのものでツッコミどころ満載なのですが、当時の日系会社はどこもそんな感じで、会議がAM1:00から始まるなんて事もよくあることだったようです。(ソフトバンクの孫さんは今でもそんな感じらしいですが)

私はそんな光景を見続けて育ったので、中学生になるころにはすっかり中二病を拗らせてしまい、周りの生徒が将来サラリーマンになることを夢見ている中で、自分は「会社員なんてクズ」と斜に構えていたのでした。

そんな信念が既に出来上がっていたため、当然のように思春期には父との摩擦は絶えませんでした。

例えばこんな感じです。


父:お前!そんな遊んでばかりいたらいい会社に入れないだろう!

私:なんで会社なんて入らなあかんの?

父:大人になったら会社に入るもんだろう!

私:別に会社なんて入る気ねーし

(ここで父は部下の評価表を持ち出してきて)

父:会社に入ったらこんなふうに上司に評価されて給料が決まるんだよ!(バンバン!)

私:だから俺は人と同じことなんてしねえって言ってんだろ!なんでお父さんの話はいつも全部会社なの?

父:お前は社会を舐めている!お前のような甘さで飯が喰えると思ってんのか!!

私:人に使われてるだけの人間に何言われても聞く気ねーし。そんなこったからお父さんはその程度の人生で終わってんだよ

私:グモッ!!!(←殴られる音)



てな具合です。


こんな関係はその後も続き、私が就職するまで(←結局会社に入ってる)すれ違いは絶えませんでした。

というか就職時にもまだ私が入る会社について虚業だとか、もっと電機メーカーや電力会社とかに入らなくては駄目だ、などとブツブツ言っていました。

このような成長過程を経て私も社会に出たわけですが、仕事をして何年か経つと、あまり父と話す必要も時間も無くなり、過去にそういうイザコザがあった事さえ自然に忘れていました。

そんなある日、ふと気づきました。

なんか、いわゆる「美味しい仕事」が良く回ってくるのです。

なぜか・・・。

当時働いていた会社は年俸制で残業代は出ません。
しかし私は父のあの働き方を見て育ったので、終電まで会社にいるのは私にとって「普通」のことでした。
いやむしろ徹夜しなくて帰れるならそれは有難いことであり、私にとっては「早退」のような認識でした。

すると、上司という動物は、そういう社員には無形の報酬を与えたがるものなのです。どう考えても普通にこなせば歩合の良い報酬が貰える美味しい仕事が回ってくるようになりました。

もちろん上司は口に出してそんなことは言いません。言いませんが、どう考えてもそうでないと辻褄が合わない状態だったんです。

そして、それを普通にこなすだけで、お金だけでなく実績もついてきます。
気づいたら社会人数年目にしてそれなりの実績と貯金という資産が出来ていました。

この資産が、今の私の資産の雪だるまの芯になっています。

貯金は投資に向けましたし、実績という資産はそれにレバレッジを掛けてより上位の会社へ転職することでより金融資産が増えました。

ある程度の資産を作ろうと思ったら、最初は労働した方が圧倒的に早くお金は貯まるんです。1000万円くらいまでは、投資の勉強なんてするよりも働いた方が何倍も効率は良いでしょう。



ここまでで既にかなり父には影響を受けていると言えますが、まだ続きがあります。

私の就職後に父がどうなったかというと、子会社の取締役になりました。
しかしこれは父にとっては不本意な結果です。父は本社で出世してせめて部長になるのが夢でした。

それを糧にブラック労働を続け、課に割り振られた残業手当の上限枠もすべて部下に付け、自分は残業代ゼロで働いてきたのに、叶わなかったのです。

昭和の日本企業は優しくて、そういう社員には子会社の役員のポストを用意してくれたのですが、それが何を意味するのかは周知の事実でしたので父の落胆は相当なものだったと思います。

そして、18歳から数十年のブラック労働の間に父は体を何度も壊し、数度に及ぶ入院と手術でボロボロになっており、取締役になった後は以前のように働くことはできず、そのまま50代前半で早期定年退職を選択しました。

その頃になると父の言う事が一変してきました。

「会社なんて、どんなに尽くしても報いてくれないよ」
「どんなに忙しくても、絶対に夕食は7時に食べなさい。良いものを深夜にたべるより、悪いものでも7時に食べる方がいい」


というようなことです。

あんなに会社命だった父がこんなことを言うなんて!!と、父の変化に驚いたのは言うまでもありません。

この一件は私にとってかなり重いものでした。
私が会社なんて辛かったらバックレようとか思うようになったのは、こういう事が過去にあったからです。

おかげさまで、私はまだ一度も病気で腹を切った事もないですし、元気に生きています。

この難しい社会の中で私が資産と健康という2大要素をうまく操縦してきた背景には父の影響は無視できないと思っています。



随分長くなってしまいましたが最後に、父と衝突していた頃に最後によく言われた捨て台詞を思い出しました。
「親の言う事が正しかったとお前もそのうち分かるに決まっている」
というやつです。

断言しますが、今でも全く分かりません!

言う通りにしなくて本当に良かったと思ってますし、これからもそうです。

父が私の就職先に望んでいた電機メーカーや電力会社はどうなったでしょうか?電機メーカーは青息吐息ですし、電力会社は未曾有の大災害により将来が明るいとはお世辞にも言えない状況です。

そして極め付けは、父が人生の全てを捧げたと言っていい会社は、米国で原発事業の買収で失敗し、巨額の損失によりそれまでの社員の努力の結晶をすべて失って、今まさに倒れかけています。

今この状況を父が見たらどう思うでしょうか。悲しむでしょうか?

親と言うのはいつの時代も30年前の常識で話をしているのです。
その陳腐化した固定観念で話している親に自分の人生を決めてもらって身を滅ぼしても、その時親はもういません。だれも責任を取ってはくれません。

投資も人生も自己責任なんです。
結局私が父から学んだ最も重要なことは、自分で決めることの大切さだった言えるでしょう。今を生きるのに必要な感性は、絶対に現役である自分の方が正しいに決まっているんです。



P.S.そうは言っても、私の運用資産には父の命の代償ともいえる遺産も入っています。なので、私は資産額を公開していません。全部自分で稼いだ分ではないですから。今後も余程のことが無い限り、この分を株に突っ込むことは無いですが、余程の事が起きた時は私の裁量で突っ込もうと思っています。(2023/05/28追記:これはコロナショック時に現実のものになりました)

それで結果を出して、今度は私が「ほらね、親の言う事がいつも正しいわけじゃないだろ?」と捨てぜりふで父に自慢したいです。ただ、失敗したら墓の前で「やっぱり親の言う事が正解でした」と土下座です。

関連記事:私を株中毒にした母の思い出

2 件のコメント:

  1. 子供の頃は父親の言うことは絶対という風潮が昭和という時代にはありましたが当時から反抗?していたということは合理的な考えができる人だったんですね。

    私の父も他界しているのですが借金の返済で苦労しました。母からは借金は絶対するなと言われましたが今ではいい借金があるということもわかっています。

    結局人間って自分が経験したことがすべてなんでしょうね。

    返信削除
    返信
    1. コメントありがとうございます。
      当時から反抗?していたのか、いやもしかして今でもまだ中二病なのかもしれません(笑)
      ともかく、この記事は他人の家庭の昔話なんてだれも興味ないだろうなと思いながら書いていたのですが、意外に多くの方に読んで頂けたようで、この場を借りて拡散して頂いた方に感謝です。

      削除

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。