その危機はひたひたと訪れた。ドットコム・バブル崩壊から立ち直ったアメリカでは、サブプライム証券なるものが発明されていた。
サブプライム証券とは金融工学を駆使し信用力の低い債券をまとめることでリターンあたりのリスクを下げ、ミドルリスクハイリターンと言う魔法を実現したデリバティブ商品だ。好景気にこれもあいまって信用は膨張し世の中にはお金が溢れ、アメリカ経済は大きく成長していた。
しかしそのデリバティブが内包するいくつかの債券にデフォルトが発生し、それが一定の閾値を超えた瞬間、魔法は崩壊した。アメリカ中のほとんどの金融機関がそのデリバティブを保有していたため銀行同士が一切他行を信用できなくなった結果、全くお金が流れなくなり、完全にアメリカの血液が止まった。金融システミックリスクである。
これを例えて言うならば、大量に保有していたヴィンテージワインの樽に泥が一滴混じっていたことが突然わかったようなものだ。一滴でも泥が混じったワインは無価値だ。資産だと思って大事に保管していたワインが、ある日突然無価値になってしまったのだ。しかもまずいことにそんなゴミを誰が持っているか分からないのだ。
―――あいつも持ってるんじゃないか?こいつも持っているんじゃないか?―――
疑心暗鬼になったアメリカの金融機関は、誰一人他人にお金を貸さない、という状況に陥っていた。これにより特にサブプライム証券の持高が大きかったリーマンブラザーズが破綻、リーマンショックと呼ばれる株価の大暴落が発生したのである。
このリーマンブラザーズが救済されず破綻、という衝撃的なニュースが意味するものは、この後に控えているもっと巨大な金融機関が次々と連鎖的に破綻していく事を意味した。この事実で、市場の恐怖は絶頂に達した。そしてこの世のものとは思えないほどのパニック的な大暴落となったのである。
市中からドルが全く無くなってしまったため、この日のFXでのUSDスワップはとんでもない数字だったのを覚えている。レートもすべての通貨で軒並み5%から10%も動く大波乱の殺人的相場となった
これだけ突然動けばレバレッジを掛けていたら即死だ。しかしFXでノーレバレッジの者などいない。インターネットのFXスワップ派のブログは阿鼻叫喚のるつぼと化し、そして少しの間をおいて全てのブログの更新が止まった。
その様子は、まるで戦場でつい先程まで息のあった負傷兵が、暫くして再度声を掛けたら絶命していたかのようだった。
――死んだか…(相場での退場)――
ぼくはそう思った。しかしこれはもう不可避な出来事だった。そもそも損切り注文しようにもレートが飛び過ぎて約定しないし、サイトによってはその注文自体もシステムエラー頻発で出せないのだ。できる事といえば取引会社から来る信じ難いレートでロスカットされた報告メールを待つ事くらいだ。もはや誰もが座して死を待つしかなかったのだ。
右を見ても左を見ても死体の山、息をしている者など一人もいない。株式・債券・為替・商品、どこの市場を見ても血みどろのまさに地獄のような光景だった。
この資本主義始まって以来の大事件は100年に一度といわれ、資本主義は終わった、これから一体どうやってこの社会を再生していけば良いのか、と世界中の誰もが途方に暮れていた。
そしてこの大嵐の中、ぼくの資産も深刻なダメージを受けていた。
それでもこの暴落の直前までは、ぼくの資産残高は年初からジリジリと下がっていたものの、かろうじて投資を始めてからの累計ではプラスを保っていた
しかし、リーマンショックの大暴落は全く次元の異なるレベルだった。含み益は一瞬で消えさった。
あまりにも一瞬の出来事だったので、ぼくはどうする事もできず、ただただ狼狽えていた。これまで5年間かけて積み上げてきた含み益、それが砂上の楼閣に過ぎなかった事。それをこの短い時間でどうしても認める事、受け入れる事ができず、頭は大混乱していた。
しかしぼくがうろたえている間にも、暴落は一切容赦しなかった。容赦するどころか、ますます勢いを増してぼくに襲いかかってきた。
ぼくの含み益を完膚なきまでに破壊したマーケットの悪魔は、次はぼくが投資を始めてから働いて節約して、コツコツ努力して作った元本をも容赦なく食いつぶして行った。さらにそれでも飽きたらず、ぼくが社会に出てから投資を志すまでに貯めた額にまで牙をむいてきた。
この時、ぼくは学校を卒業して社会に出てから10余年。その間に築いてきたもの、それがたったの数日、10年間以上の努力の結晶が本当にたった2 〜3日で、大部分が消え去った。この10年間は一体何だったのか。ぼくは失意のどん底に落ちた。
この日、ぼくはマーケットという巨人に踏み殺される蟻だった。
【次回へ続く】
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